身内に打ちのめされる!
こんにちは。
わが子が不登校ではないかという疑いが確信に変わって、
学校関係者とか近所の目とかいろいろと向き合いながらも 心も体も疲弊する中、
両親からの言葉に打ちのめされるという経験はありませんか?
私は両親や身内に告げるか、告げたらどんな反応が来るのか、
おおよその見当はつくものの現実になるとやはりやりきれない思いに襲われました。
その私が今は両親に感謝の思いさえ抱けるようになった経緯を書いておこうと思います。
私は息子を愛してる
生まれてくるときには、無事に生まれてくることだけを願ったはずが、
息子が何が本当は好きで、どんなことに興味があって、今日どんな日だったかよりも
いつもいつも平均以上にできることを願い、
その枠の中で問題なく元気でいてくれることに終始してたように思います。
息子が籍を置いていたフリースクールで不登校を学ばせていただきながら、
私は学校に行っている息子を愛してるんじゃない。
親の思い通りに生きる息子を愛するんじゃない。
息子が生まれたとき、その存在そのものを愛してるはずだ…
そういう当たり前のことを思い出しつつも行動に移すときはやっぱり勇気のいることだったけど
少しずつ”思い”と”行動”が一致し始めました。
肉親からバッシング
どんな息子も本当に愛しているなら、誇りに思うなら
誰にも何も隠す必要がない!
とは言え身内に打ち明けるのはハードルが高かったし、とても怖かったけど
むしろ純粋に息子を愛しているのかどうか自分に証明するための高いハードルのような気がします。
日々自分を責め、周囲の方々の偏見や批判や好奇に疲弊していた私は
理解されるどころか私の存在そのものを否定するような言葉にいともたやすく心折れました💦
高学歴が蔓延する世の中で、
それが子供の幸せの道と信じた両親にその型通りに私がする子育てを非難される矛盾。
それ以降は理解してもらうことや心の居場所的な思いがほぼなくなったと思います。
なんだかんだ言いながら親に依存していたことを思い知らされたわけです。
そしてある日シータの練習をしているときに
人生の最大と思えるようなピンチに誰も理解者がいないどころか、バッシングされるということの意味を知ることになります。
その意味とは
この出来事で気づけたことは大きく2つ。
もし、学校関係やママ友や好奇の目に疲弊していた時、
心のよりどころとして身内に受け入れられたら
いつまでも”安心”を自分の外側にみつけようとしていたでしょう。
安心が自分の外側にあるとしたら、環境によって左右されてなんとももろい安心であること。
もう一つは
この時はこちらのほうが大きい気づきだったのだけれど
それほどいい関係にあったというわけじゃないけど
窮地に追い込まれた時に頼れる存在だど勝手に期待して勝手に裏切られたような気になって
孤独や悲しみや絶望に深くのまれてしまったからこそ、
だからこそ自分の本当の望み”心にかかわる道で生きていきたい”という思いに気づけたなと思ってます。
ライオンがわが子の自立の時期に崖に突き落とすそうですが、そんなイメージです。
母ライオンからの愛情を感じていたからこそ、崖に落とされた時ショックだったろうけど、
もう自立の時期なんだと悟るんですね。
他人に裏切られたぐらいじゃパンチが弱くて自分の人生を自分の足で歩こうとしなかったんですね💦
切ろうとしても切れない身内、こと親から見放され、裏切られ、世界にたった一人になったような孤独を
感じるくらい追い詰められなければ、私はたぶん自分の職場に不満を持ちながらも
生活のために辞められなかったと思うから。
人生を大きく修正するには肉親への増悪が必要だったと思ってます。
それが腑に落ちたら、憎まれ役を担ってくれた両親に心から感謝がわいてきて、
今天国の両親が温かく見守ってくれているのを感じます。
もし、あなたがこんな経験をしていたなら
あなたの歩む道に大きな転機が現れているのかもしれませんね(⋈◍>◡<◍)。✧♡
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